田園調布雙葉学園カトリックセンター「愛の泉」
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けさのみことば ~こどもとともに~2025.1.28


2025.1.28
「義にうえかわく人はさいわい」

義に飢え渇く人は幸いです。その人は満たされるでしょう。  マタイ5章6節


 皆さんは、お腹が空いてたまらない、のどが乾いてたまらないという経験がありますか。
 ちょっとばかりお腹が空いたりとか、のどが乾いたりというのではありません。もうがまんできない、歩けないというほどお腹がペコペコ、のどがカラカラ、一しずくの水でも欲しい・・これが「飢え渇く」ということです。本当に飢え渇いた人は、一切れのパン、一口の水を求めて、真剣に探します。なぜなら、それが手に入らなければ、確かに死んでしまうからです。
 「谷川の水を求めて 
 喘ぎさまよう 鹿のように」
という歌詞の聖歌があります。
 先生は、この聖歌を聞いて、のどが渇いた鹿が、谷川を見つけようとしているのだな」と思っていました。しかし、ある神父様が「それは違うよ。鹿は、生きるために大切な水が流れる谷川がどこにあるかは知っているのだよ。けれども、その水があるべき場所に行っても、水が流れていない、道のようなものがあるだけ。その干からびてしまった谷川を少しでも水が残っているところはないかと探し回っている鹿の必死さを感じ取らなければいけないよ。」と教えててくださいました。
 今日のみ言葉を見てください。
 「パンや水に飢え渇く」のではなく、「義に飢え渇く人」とイエス様はおっしゃるのですね。「義」とは何でしょう。むずかしい言葉ですが、やさしく言うと「正しいこと」「神様の正義」です。言い換えれば、「神さまがお望みになること」と言ってもいいでしょう。
 先ほどの聖歌は
 「神よ わたしはあなたをしたう」
という歌詞が続きます。ですからこの歌詞は、「わたしたちは、水を求める鹿のように、必死に神様を、神様の正義を求めています」という聖歌なのです。
 なぜ必死になるかというと、神様の正義が、神様の思いが行われるはずのところに、神様の正義が行われていない現実があるからです。国や社会、一部の人たちが正しいと思うことだけが大事にされ、戦争で苦しむ人がいるのに戦争は続けられ、食べるものがない人がいるのに食べものは捨てられ、苦しんでいる人々の存在が忘れられる。そんな現実が私たちの周りにはあるからです。
 私たちはどのくらい、熱心に「正しいこと」をしようと努力しているでしょうか。「神様のお望み」をどれくらい熱心に探しているでしょうか。どの国も平和で、みんなが安心して暮らせる世界にするために、何かしているでしょうか。
 イエス様は「義に飢え渇く人は満たされる」とおっしゃいました。お腹がいっぱいになり、のどの渇きもうるおわされるように、イエス様は、「今苦しんでいる方々は必ず神様によって満足するでしょう」とおっしゃるのです。他の人のために、何かを一生懸命させていただくと、その人も自分も、とっても嬉しくなるとおっしゃるのです。
そうですね。災害があったあちこちで働くボランティアの方々は、皆嬉しそうです。そして、災害にあった方々も、ボランティアの方々と出会い、嬉しそうです。そんな様子をご覧になるイエス様も、きっとお喜びになるでしょうね。
 今日のお話は少しむずかしかったですね。でも、神様の望まれることを、一生けんめい望み、実現しようとする人になれたら嬉しいですね。


けさのみことば ~こどもとともに~

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