田園調布雙葉学園カトリックセンター「愛の泉」
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けさのみことば ~こどもとともに~2025.2.4


2025.2.4
「わたしは戸口に立ってたたいている」

「わたしは戸口に立って叩いている。」(黙示録3章20節)


 ずっと昔、先生は一枚のカードをシスターに見せていただきました。その絵を時々思い出します。どういう絵かというと、ある家のドアの前にイエス様が立っていらっしゃって、ドアをノックしている絵です。イエス様のお顔は「ノックの音が聞こえたかな。ドアを開けてくれるかな」というような表情をしています。よくその絵を見ると、その絵のドアには取手がついていません。外からは開けられないドアなのです。だから、イエス様は中から開けてくれるまで待っていなければなりません。  この絵の意味をシスターはこう教えてくれました。
 「イエス様は、わたしたちの心の中に入りたい。わたしたちの心の友達になりたいので『入ってもいいですか』と心のとびらを叩いていらっしゃるのですよ。そのノックの音を聞いて『はーい、どうぞ』と、内側から開けてさしあげなければ、イエス様は入ってこられないのです。イエス様は、決して無理やりに入ってはいらっしゃらない方です。わたしが喜んでお入れするまでがまん強く待っていらっしゃるのですよ。」
 このお話を思い出したのは、今年が聖年と言う特別な年だからです。
 二十五年に一度しか開かれない教会の扉が開けられる年。それは、なかなか心を開けないわたしたちに、「教会の扉のように、心の扉を開きましょう」という、イエス様の呼びかけの目に見えるしるしでしょう。
 イエス様は、聖書の違う箇所で、「小さな人、貧しい人、困っている人、悲しんでいる人、苦しんでいる意図にしてくれたことは、わたしにしてくれたことと同じですよ」ともおしゃっています。
 直接イエス様が心の扉をたたいていることを、わたしたちはなかなか感じられないかもしれません。けれどもイエス様は小さな人々を通して、わたしの心の扉をいつもたたいているのです。
 イエス様が扉をたたいているのは、心の扉を開いて、わたしたちに何かをしてほしいからでしょう。
 今日は、「誰かが訪れたのなら」という素敵な詩を一つご紹介して、「今朝のみ言葉」を終わりましょう。

「誰かが訪れたなら」
誰かが寒さに震えて戸口を叩いているのは、
  あなたが、毛布を持っているからです。
誰かが喜びを携えて戸口を叩いているのは、
  あなたが、ほほ笑みを持っているからです。
誰かが涙をたたえて戸口を叩いているのは、
  あなたが、慰められるあたたかい心を持っているからです。
誰かが痛みをもって戸口を叩いているのは、
  あなたにその痛みを癒すやさしさがあるからです。
誰かが話したくて戸口を叩いているのは、
  あなたが、頷きながら聴く心の耳を持っているからです。
誰かがお腹をすかして戸口を叩いているのは、
  あなたが、分かち合うことができる食べ物を持っているからです。
誰かが一人ぼっちの寂しさに震えて戸口を叩いているのは、
  あなたの包み込む両の手を持っているからです


けさのみことば ~こどもとともに~

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