けさのみことば ~こどもとともに~2023.4.10
2023.4.10
イースターの集いの話
「さあ、来て、朝の食事をしなさい」
(ヨハネ21章12節)
教会では土曜日の夜からイエス様のご復活をお祝いするお祝いするごミサが行われています。二日遅れですが、みなさんと一緒に、こうやってイースターを今年もお祝いできることを本当にうれしく思っています。
皆さん、イースター、おめでとうございます。
イースターは、神様の光を頂く日です。先ほど、大きなろうそくが皆さんの真ん中を通って、祭壇におかれました。
イエス様は、「私は世の光である」と仰いました。イエス様の暗闇を照らす光は、私たちの心の闇も照らしてくださり、明るい心にしてくださいます。
でもこんなに大きなろうそくを使うのはなぜでしょう。
先生は、「電球でも、LEDでもいいのになあ」と思ったことがあります。でも、よく考えると、やっぱりイエス様の光を顕しているのは、ろうそくの光だと思い直しました。
これだけ大きなろうそくでも、この会場すべてを明るくすることはできません。教会では、この大きなろうそくから一人ひとりが火をいただいて、自分のろうそくに火をともしていきます。そうすると聖堂が光に包まれるのです。イエス様は私たち一人ひとりに、光をわたし、私たちと一緒に明るい世界を造られる方なのです。
ろうそくの光は、ただ明るいだけでなく、温かい光です。炎の揺らぎを見ていると、何となく落ち着き、心の奥の方まで温かくなります。
ろうそくは自分の身を溶かして光を届けます。それは私たちのためにご自分を捧げられたイエス様のようです。それは、神様のあたたかい心を顕しているのでしょう。
神様のみ心は 私たちが、喜んで生き、幸せであること 平和であることを願っています。
そのために、イエス様は、十字架に付けられました。神様であるのに、ご自分を低くして、まるで悪いことをした人のように、身を低くしたイエス様です。
私たちは、身を低くするどころか、ちょっとしたことでも、ほめてもらいたいし、自慢したくなります。困ったことがあれば、自分が傷付かないように、自分だけは損をしないようと、考えてしまいます。自分がした失敗や間違えでさえ、誰かのせいにしてしまうことがあります。けれども、イエス様は違います。何も悪いことをしていないのに、ご自分を差し出します。傷付いても、踏みつけられても、私たちが喜びの中に生きられるように、ご自分を捧げて下さいました。
先生は、ご復活の時期になると、ルターという人が話した、二匹の山羊のお話を思い出します。
「二匹の山羊が、川の流れの上の狭い橋の上で出会いました。
二匹はどうするでしょう。
山羊は後ずさりができません。もとへは戻れないのです。
道があまりにも狭いので、、向きを変えることも、互いに通り抜けることもできません。
もし、二匹が互いに争って、前に進もうとすれば、ぶつかってしまうでしょう。一匹が相手を蹴落とせば、進めるかもしれませんが、もしかすると、争っているうちに、二匹とも水の中に落ちて、おぼれてしまうかもしれません。
二匹の山羊は、どうしたらいいのでしょうか。
与えられるただ一つの方法は、一匹が伏せて、もう一匹がその上を踏んで、進んでいくことです。そのようにして、初めて二匹は、妨げられずに通り抜けることができるのです。」
こういうお話です。
でも誰が、自分から身を低くして、踏みつけられるために、道に伏せるでしょうか。そう考えたときに、この、身を低くして、相手のことを思って、自分が傷付いて踏みつけられても通してあげる山羊の姿、その心は、十字架の上のイエス様の姿だと、イエス様の心だと、先生は思いました。私たちの幸せのために、傷ついてもその身を捧げて下さったイエス様。そして、イエス様は、十字架の上で息を引き取り、自分では立ち上がれない者になってしまいます。けれども、神様は、イエス様をそのままにはなさいませんでした。今度は、神様ご自身が、屈みこみ、立ち上がれなくなったイエス様をその両の手で抱え上げて下さいました。そして、再び、永遠に生きる者として、立ち上がれるものとして下さいました。
復活なさったイエス様に出会った弟子たちの心に光を与えます。弟子たちをやさしく包み、立ち上がる力をくださいます。そうして、弟子たちもイエス様のように、誰かのために身を低くできる人になっていきました。
先ほど読まれた聖書のお話を想い出してみましょう。
イエス様は、自分のことを三度も知らないといったペトロや逃げてしまった弟子たちに、恨み言を言うどころか、魚が取れず、困っている弟子たちを助けます。そして、お食事に招くのです。
「さあ、一緒にご飯でも食べよう。そんなに気にせず、おいしいものを食べて、まずはお腹を満たしてごらん、心も満たされていくよ。
私と一緒に食事をして、一緒に幸せな気分になろうよ。だって私は、皆が幸せになることを願っているのだから。わたしの心は、神様と同じなのだから。」
永遠の命を生きるイエス様は、今も、私たちを、お食事に招いてくれています。一緒にいてくださいます。
毎日教会や修道院で行われている御ミサは、イエス様と一緒にお食事をする時と場です。
イエス様は、私たちが幸せに生きられることを望んでいます。
イエス様は私たちがいいことをしたから、立派だから、お食事に招いてくださるのではありません。弟子たちのように失敗や間違いを犯し、生き生きと生きる力をなくしているときこそ、「さあ、一緒にご飯でも食べよう」と、声を掛けてくださっているのです。
イエス様にお食事に招かれている。それは大きな喜びです。弟子たちの喜びを、もう一度思い返して、私たちもその喜びを味わうとき。それが、このイースターのお祝いです。
イエス様のお招きを素直に喜び、受けること、それが大きなろうそくから、火をいただくことです。イエス様の光をいただいて、明るく、生き生きと、この一年を過ごしていきましょう。
そして、誰かに、イエス様の光を渡せるように、誰かのために身を低くできる人になったいきましょうね。
けさのみことば ~こどもとともに~
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