けさのみことば ~こどもとともに~2022.11.15
2022.11.15
「幼な子たちを抱きあげて」
(そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 マルコ 10・1)
ある日のことです。何人かの人が、イエス様のところに自分達の子どもを連れて来ました。イエス様に、子ども達に触れていただき、祝福をしていただきたかったのでしょう。けれども、イエス様の弟子達は、この人達を叱りました。
「帰りなさい。イエス様はとてもお忙しく、お疲れなのだ。何の役にも立たない子ども達を近づけるな。ようやく少しお休みになられたのに、少しは静かに、身体を休ませてあげなければ・・・。さあ、帰れ、帰れ。」
弟子達が心配したのには理由があります。その頃のイエス様は、弟子達に「ご自分が殺されること、そして三日目に復活すること」を二度もお話になっていました。弟子の一人のペトロは、初めてこの言葉を聞いたとき、「そんなことを口にしてはいけません」と自分の師であるイエス様をいさめようとしました。ペトロもほかの弟子達も、イエス様のこの言葉の意味がよく分からなかったのです。イエス様は、もうすぐ、ご自分が、みんなの救いのために十字架の苦しみを引き受けなければならないことを知り、とても苦しい思いをなさっていました。弟子達は、イエス様のお気持ちまでは分かりませんでしたが、イエス様の姿から、なんだか元気がなく、とても悩んでいらっしゃることは感じていました。だから、イエス様のことをとても心配していたのです。そんな時に、何人かの人が、自分では何も出来ない、神様とのお約束である律法も守れない、手がかかる小さな幼な子達をイエス様のところに連れて来たので、弟子達はその人達を追い払おうとしたのです。
イエス様はその様子を見て、弟子達を叱りました。
「何をしている。子ども達を私のそばに来させなさい。
私は、子ども達が私のもとに来てくれることがとても嬉しいのだよ。子ども達は素直に私を受け容れてくれて、神様にすべてを委ねられる。子ども達は、私の大切な、大切な宝。追い返すようなことをしてはいけない。」
そして、イエス様は、幼な子達を腕に抱きあげ、母親達が望む通り、一人ひとりの頭の上に手を置いて、祝福してくださいました。
幼な子は、確かにできないことばかり、失敗もいっぱいしてしまいます。それでも、心からおうちの方を信頼し、できないことに心を奪われるのではなく、できるようになるように一生懸命です。皆さんもそうして、大きく成長してきました。イエス様は、神様に対しても、幼な子のようになることが大事だとおっしゃいます。そして、神様がそうであるように、イエス様は、幼な子も、幼な子のような小さな人々にも、やさしく、あたたかい眼差しを向けられます。そして、ご自分のことよりも、小さく弱い人達のことを、先に考えてくださいます。
イエス様が教えてくださった主の祈りの最初は、「天におられるわたしたちの父よ」という神様への呼びかけで始まります。日本語ではちょっと大人っぽい「父よ」という言葉ですが、イエス様が使われたのは、幼な子が呼びかける「アッバ」という言葉です。幼な子がお父さんに何かをお願いするときのように、素直な心で、心から信頼して祈りなさいということでしょう。神様は、幼子を見るようなあたたかい眼差しで、私達の祈りを聞いてくださるのです。弟子達は、また一つ大事なことを学び、イエス様がもっと好きになりました。
ほら、五年生、六年生の皆さんは知っていますよね。ごミサの時、神父様は私達の頭の上に手を置いて、祝福してくださいます。それは、イエス様が幼な子になさったことと同じです。
今日は七五三のお祝い日。この行事も幼い子ども達の無事な成長を願うものです。皆さんはきっと、千歳飴を美味しくいただいたことを覚えているでしょう。千歳とは千年のこと。それだけ長く、飴のように粘り強く、いつまでも健康で長生きしてほしいという願いが、千歳飴には込められています。それは、私たち一人ひとりが生き生きとその命を豊かに生きてほしいというイエス様のみ心と同じです。祝福とは、今この時のお恵みをお祝いするだけでなく、将来の幸せを願う心の顕れでもあるのです。
主の祈りを唱えるとき、「わたしたちの父よ」と幼な子のような心で祈るとき、目には見えないけれども、イエス様は今も私達を抱き上げ、頭の上に手を置いて、祝福してくださっています。
何だかとっても嬉しくなりますね。
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